2018/02/15

9月中旬の敬老の日の夜、急な吐き気を催したのち、直後から猛烈な胸痛に襲われました。尋常ではない痛みから、たまらず救急車を呼びます。
1つめの受け入れ先でCTスキャンを撮ってもらい、原因は判明したのですが同病院では処置が難しいとのことで、そこからまた別の病院へ。
2つめの病院で、あらためて検査してもらったところ、即緊急手術となりました。激痛で苦悶するなか、担当医は「もう少し遅かったら、このまま気を失って明日には死んでいたと思いますよ。」と言っていました。ひすいこうたろう氏の本「明日死ぬかもよ」を地で行っているような感じですね。
ほぼサインだけ済ませてオペ室へ。深夜から4時間半ほどで終わったようです。(何時に始まり、終わったのかなどはほとんど記憶にありません。)
手術が終わりICUに移動して目が覚めると、体には幾本ものドレンホースや点滴の管だらけになっていました。そして胸には大きな切り傷の跡があるのを目にして、あらためて「あぁ、手術受けたんだ」ということを実感したのです。
この記事を書いているのは上記の術後12日目ですが、いまだに食事はおろか水も摂取が許されておらず、点滴や栄養剤の大腸への注入のみです。胃袋は常に空っぽなので、お腹が空きすぎでツラいのかと思っていたのですが、どんな形であれ必要最低限のカロリーを摂取しているからでしょうか、空腹感はほぼ皆無なのが不思議です。
とは言え、舌で味わって何かを食べたいというのは本能に近いものでしょう。それが出来ないことにストレスを感じているこの頃です。
いま一番食べたいものは、プッチンプリンと、カットパイナップルです⋯。
残りの時間は神様がくれた、おまけ時間
さて、そんな手術を終えて心境にも変化がありました。ガラッと考え方が変わったのではなく、少しずつじわじわと変化していっているように感じます。
人は生きているのではなく、生かされているのだということ。
生かされているとはどういうことか?を言葉にして説明するのは難しいのですが、たった一つの命も、ほんのちょっとしたことで生命の危険にさらされることもある訳です。また、生まれてきて、生きて死ぬって、そのすべてを1人でやれる人はこの世にいません。そういう意味でも「生かされている」ことにもっと感謝すべきだし、強気で楽しみにいっていい理由にしてもよいのでは、と思うようになりました。
この世界中の誰もが「生きているのではなく、生かされている」ことに気づいた時、大きな世界も小さな世界も、もっと生きやすくなるような気がします。
そしてもうひとつ、少しづつ変化している考え方に「残り時間は、おまけ時間」であるということ。そもそも、おぎゃぁと生まれた時から「おまけ時間」なのかもしれませんね。
ここで誤解しないよう自分も意識しているのですが、おまけ時間だからといって何かを頑張らないとか、消極的になるだとかいう訳ではありません。やらなくちゃいけないことも、やりたいことも、全部おまけ時間。そのおまけ時間を盛大に楽しんでやろうと思っています。
今までもそうやって楽しんできたつもりではいますが、余命1日から戻ってきた後とでは、感じ方がまた違っているようです。
悲しむよりも踊りまくって奇跡の日々を始めようぜ(サンボマスター)
と、なんだかポジティブ気味に書いていますが、もちろん術後数日はネガティブでした。それも、かなり。
なんでこうも試練のようなことが続くのだろうと思ってもしまいます。これまでにしてきたことのツケが盛大に目に見える形になって現れているのかな?と弱気になってしまったり。
ただ、もし仮にそうだとしても、もう後の祭りです。後悔しようと思えばいくらでも後悔できますが、そこから生まれるものは何もありません。だとしたらもう、前向きにやっていくほうが良いでしょう。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃ損損です。
自分は阿呆です。でも、自ら踊って楽しむ阿呆でいたい。