2018/02/15
今年の9月、友人が切り盛りしているお店を個人事業から法人化したと聞いて。それにふさわしいお祝いは何がいいだろう?と、しばし考えた。ちょっとだけ悩んだ。
そして以前、会話のなかにあった「今でもblink-182が好きだ」というささいなやり取りを思い出し、それに関係する物を贈ろうと思いついた。
ならば、まずはステッカーだ!ということで、メリカリでステッカーを探してみて数枚を落札。お試しに自身のバイクトップケースにも貼ってみたらとても良い感じだった。
でも、さすがにお祝いがステッカーだけじゃ何だかなぁと思って、その後もいろいろ考えた末これも持っていくことにした。
その昔、blink-182のライブに行った時のこと。たしか15年くらい前のことだったと思う。ライブ会場は折しも2022年1月1日で営業終了となってしまう、お台場のZepp Tokyoで。
そんなライブを最前列のあたりで観ていた際、トムがステージ上から、おもむろにいくつかのピックを投げはじめたのだ。それまで自身が弾いている手に持っていたものから、マイクスタンドに備え付けられていた予備のものまで、何枚かをピっ、ピっ!って。
最前列で観ていたキッズ(※自分は当時すでにキッズではない)たちは、そんな前で観ているくらいだからみんなblink-182大好きは間違いないだろう。
そのピックをこっちへ!私のほうへ!なんていう感じで、みんなが手を差し出して熱狂した瞬間だった。
そのうちの1枚が、自分のほう目掛けて飛んできたのだ。
こ、これは!?
取れる!
ちょっとシュート回転気味で向かってきたピックをつかもうと夢中になって手を伸ばし、ぎゅっと空中で握りしめた左手。
そのあと目の前にもってきて広げた手の平には、当然ながら何も収まっていなかった。
あぁ、すぐ目の前に飛んできたのに取れなかった・・・
いや、もしかしたら地面に落ちているかも
そんな淡い期待を抱いて下に目をやると、それがあったんです。
汗をかいてベトベトな自分の左腕に、オレンジ色をしたピックがぴたりと貼りついていた。
このときほど汗かき体質に感謝したことは、後にも先にもない。(歳を取ったせいか、今ではそこまで汗もかかなくなってしまったけども)
にわかに信じがたい光景だったけれど、腕からそっと剥がしたピックをズボンのポケット奥底に大事にしまって持ち帰ったのでした。
そしてヤフオクか何かで手に入れた安いプラスチック製の額のなかに、当時お気に入りだったCDジャケットをプリントアウトしたものを台紙に代わりにして大事に飾った。
そんな思い出がつまったピックだけれど、これもblink-182が大好きだと言う友人へのお祝いに持っていくことにした。
いつからかずっとクローゼットの奥にしまっていたから。これがもう一度輝きはじめるのは、友人が切り盛りするお店のレジ向こうにある棚に間違いない。
他の誰かの手に渡してしまうことにほんの少し戸惑ったけれど、クローゼットの中で過ごしているよりもはるかに良いだろう。ピックにとっても自身にとっても。
あるべきものは、あるべきところに納まる
時おり見かける、ありきたりと言えばありきたりの言葉。あるべきものは、あるべきところに納まる。
このピックに関して言うと、自分は安物とはいえ額に入れて大切にしているにも関わらず、いつからかそれを飾りもせずクローゼットの中にある私物入れにしまい続けていた。
そんなのピック自身にしてみたら嬉しくも何ともないんじゃないかと。
だったら友人のお店、レジ向こうにある棚に飾られたほうがきっとイイはずだ。その棚には以前に贈った「しょうがないさん」や「謎のシーモンキーボブルヘッド」だっている。またひとつふたつ、その愉快な仲間入りだ。
勝手に贈り、勝手に飾っておきながら何だけど、こうやって少しずつ「あそこへ行けば、いつでもアレが飾られている」という安心感を増やしてしまおうと企んでもいる。
なぜならば。
個人的に思い入れがあるものを、そっと大切にしまっていたとして。
たとえば自身がある日、この世からいなくなったとしましょう。
その後しばらくして遺品整理だか何だかをしてもらっている最中に、このピックが出てきたとするじゃないですか。それもクローゼットの奥の何だか分からない箱の中から。
その時、このピックは何処でどのように手に入って今ここにあるのかなんてこと誰にもまったく分からず仕舞いで処分されてしまうだろう。
それではあまりにも勿体なさすぎる。
そんなことがふとよぎった時、もしかしたら思い入れがあるものほど、その価値観なりエピソードをスゲー!って共有してもらえる人の手に今のうち渡しておいたほうがいいのかもしれない。なんて思ったりして。
後生大事にしたいと思うモノほど共感できる誰かに譲っておいたほうが何だか気が楽だし、共有できるような気がした。それはピックに限らず、モノに限らず。
そんな風にしてモノ、コトのすべてはその大小に関わらず、あるべきところにあるべき形でいずれ納まるのだろう。