2018/02/15
こういうことがやはり「季節柄」ということになるのだろうか、11月に入ってから急にサウナづいてきてしまい。
初旬の川崎ゆいるにはじまり、つくばの喜楽里別邸から近所の浜町浴場。お風呂とサウナで気分転換が、とても気持ち良い季節になってきた。
そう、浜町浴場という「いわゆる昔ながらの銭湯」が比較的近所にあるのは前々から知っていたけれど、これまで行ったことがなかった。
仕事帰りの19時過ぎ、そうだ。浜町浴場に行ってみようと思いついたままぶらりと立ち寄り、番台のおばちゃんにスッと千円を出しだす。
当然、フェイスタオルも用意していなかったので「タオルも1枚、お願いします」と伝えると。
おばちゃん「バスタオルでいいかい?」
じぶん「いえ、フェイスタオルでお願いします」
おばちゃん「バスタオルのサイズしかないけど、それを有料でいいのかい?」
じぶん「いえ、こんなサイズ(両人指し指でフェイスタオルの形を空中に描く)のタオルで」
おばちゃん「あぁ~それなら無料で貸し出しできるよ、ほい。」
番台の向こうから、お釣りといっしょにフェイスタオルまで渡される。浜町浴場はなんと450円でフェイスタオルの無料貸し出しサービスまであった。
ちなみにこの浜町浴場、オーバーフロー式の浴槽が特徴のようです。
立ち湯やジェットバス、寝湯と、いろいろなカタチに併せてそれぞれの浴槽を用意しなければいけないところ、オーバーフロー式というのはお湯を循環させつつ、それぞれをひとつの浴槽でまかなうようなものと言ったらよいのだろうか。
浴槽に流れるお湯自体はひとつ続きなのだけれど、上流から中流、中流から下流へと流れ落ちていくお湯それぞれを滞留させる浴槽それぞれが、ある場所はとても深かったり、またある場所はジェットバスになっていたり、またある場所は浅く作られていて寝湯のようにくつろげたりするようになっている。
そんな浜町浴場、実はスチームサウナもある。初めて訪れたこの日、2度スチームサウナを堪能させてもらった。
3~4人ほど座ったらいっぱい一杯なくらい、こじんまりしたスペースに腰かけジッと過ごせど後にも先にも他の利用者はやって来ず。浜町浴場のスチームサウナは、あまり人気がないのだろうか・・・
※浜町浴場については「鎌ヶ谷 船橋あたり」というサイトでも詳しく紹介されています。
もう、迷ったらジートピアで間違いないんじゃないか?
浜町浴場から数日後の週末。実家に立ち寄ったついで、久しぶりジートピアも堪能することに。
ジートピアでのアカスリ&マッサージは昨年同様12月の年越し前、ちょっとだけ贅沢しちゃおうと取っておきの楽しみにしていたはずが・・・この日はいつもよりリフレッシュしたく、12月を待たずしてアカスリ&マッサージをオプションでつけちゃいました。
基本入浴料1,100円にアカスリ&マッサージで約3,500円。5,000円でお釣りがくる、たまの贅沢。そして安定の居心地の良さ。
どこのお風呂に行こうかなんて迷ったならば、そういう時はもうジートピアで間違いないんじゃないか。そんなジートピアで至福のひと時を味わっているときに、ふと思ったことがもうひとつ。
サウナは、貴重なじぶん時間のひとつであるということ。
暑い(熱い?)のに耐えて汗かいて一体その先に何があるんだい?って、きっと気持ちイイ以外に大した意味ないけれど、それでも何といったらよいか「何も余計なことは考えなくてもいい、ただ自分と向き合う時間 = スパ時間」なのだろう、と。
自分と向き合うなんていうと、ほら、たまにネガティブなことが無駄に頭の中をよぎっちゃったりするものだ。果たしてこのままでいいんだろうか?なんて。(この歳になると、さすがにそういうこと思わなくなってきたけども)
そんな自身と向き合う時間=じぶん時間も、きっとスパでなら全部ポジティブだ。いや、少なくとも必要以上に悲観的になることはないだろう。ただ、あるがまま。いまこうして素っ裸でお風呂とサウナを楽しむ自分がいる。そう、ただそれだけ。それだけでいいのだ。
ジートピアでそんなことをぼんやり思いながら湯舟に浸かった時とちょうど同じ頃、毎日新聞のとある1面にドリアン助川氏への一問一答のような記事が載っていた。
ちなみに自分のなかでのドリアン助川氏は、学生時代に観ていた深夜番組に時おり登場する「金髪ロン毛の、ロッカーか何かのひと」という勝手なイメージしかなかったのだが、今では明治学院大学教授も兼任されているらしい。なんとも多才な人である。
そんなドリアン助川氏のいくつかのコメントを、著作権に触れない範囲で抜粋してみる。
昨日より今日、今日よりも明日。
誰もが社会の発展に向けた貢献を求められ、役に立つかどうかで人の評価が決まる。
ドリアンさんはそれを「発展病」と呼んでいる。
アイフォンはより進化していくでしょう。中国はいずれ月面に飛行士を飛ばすでしょう。
こういうのは止められないですよ。
みんなで昔の生活に戻りましょうっていうのはナンセンスです。
それはできない。だけど意識の持ち方を変えることはできる。
人間として生まれてきたということは、人間を味わうっていうことだと僕は思っています。
だから学生にも伝えています。
人として生きていくことを味わうっていうことが第一で、それができたらもういいんだよって。
この記事を読んでまず意外に思ったことが「より良い生活は、より良い会社や、よりよい仕事を通じて相応しい社会貢献をすることだ」というような考え方が、今も少なからずあるようだ。ということだった。
実際に学生と直に向き合っているドリアン助川氏が「発展病」と称し表現するくらいなのだから、おそらく事実なのだろう。
相応しい社会貢献をしてくこと = より良い会社に入ってというのは勝手な解釈かもしれないけれど、ひと昔前は「良い会社に入社したら、良い生活をおくることが出来る」なんていうのが定説になっていた時代があった。自身も何度かそういう類のことを耳にした記憶があるので、これもまた間違いない。
昨今はそんな時代の価値観とも変わっているだろうに、今でもそういうことに対する”生きづらさ”のようなものを感じる人はいるんだな、という印象だった。
そのあとの「意識の持ち方は変えることができる」という言葉や「それができたらもういんだよ」っていうくだりからも、今足りていないものは何だろうと思ってしまった時こそ、すべては自己肯定ができるかどうかに繋がるんだと言っているんだと思う。(と、勝手に解釈している)
もしかしたら今の時代のほうが事情はもう少しだけ昔よりも複雑になってきているのかもしれない。極端な例だと、SNSでイイネをもらうことで自己肯定感を得るようなことって、昔はなかったもの。誰かのイイネ、誰かのレス(反応)がないと自分は認められていないような気がしてしまうのだとしたら、それもまた発展し過ぎたが故の弊害なのでは、と。
人ってあまりに豊かになり過ぎると、どうやら何かにつけて意味づけを模索しはじめてしまうようでもあるし。
かと言って確かに後戻りはできない。じゃあ、いったい何が自分を満たしてくれるのか?なんて思ってしまう時がもしも訪れたなら、それはもう、そういう自我もいる自分のことを愛おしく思ってあげる以外にないんじゃないか、と。そういう自分もいるんだと認めるだけでずいぶんと気は楽になったりするものだ。
たとえそれが出来なくとも、イマココを意識するだけでも感じ方や捉え方を俯瞰的に見られたりするんじゃないだろうか。
と、スパの話から、大きく大きく脱線してしまったけれども。つまるところ何を言いたいかというと、もしも余計なことを考えちゃったり、悩んじゃったときがあったなら。なおさら銭湯はいいぞというたった一言だけです。イマココを意識するうってつけの場所はお風呂であると断言したい。
鼻下まで湯舟に浸かってジっと過ごすも良し。ジェットバスで背中や腰、足裏をいたわるも良し。サウナで汗かきかき、水風呂からの外気浴に癒されるも良し。
少しでも無心の時間を過ごしたり、じっと向き合うことができたなら、それでもう最高のひと時だ。
だからサウナは続くよ、どこまでも。
というわけで11月に訪問したスーパー銭湯備忘録は以下に。ちなみに最近、自宅でも長湯したあとベランダでパンツ一丁涼みも意外と気持ちイイものだと気づきました。