2018/02/15
路地裏。
それは単なる裏道、裏通りにあらず。
路地裏は、その時代、時代を生きた人たちの息遣いが色濃く残っている場所である。
つい先日、2021年7月に「奄美大島、徳之島、沖縄島北部や西表島」が世界遺産登録となった。
いくつかの建築物や景勝地が世界遺産となる傍ら、各地にある路地裏もまた自身にとっては歴史遺産と表現してよいほど趣深いものだと思っている。
何でもない路地裏だって、歴史的遺産
路地裏マニア、路地裏萌えという言葉があるのかどうかは知らない。
ただ、ふとした場所で路地裏の雰囲気に気づいたときの、あの独特な瞬間がとても好きなのだ。そう、その情景に「萌える」のである。
たとえば賑やかな中心街を歩いているとき。
ふと脇道に目をそらして視界に入ってきた路地裏は、まるで誰かが気づくのを待っていたかのようにひっそりと佇んでいる。
そんな路地裏をゆっくりと歩くとき。
路地裏は「あぁ、誰かがこの雰囲気に気づくのを待っていたんだよ。ずっとね。」と、静かに語りかけられているような錯覚になる。
青森のねぶた祭の雰囲気は知らない。でも、ラッセラー、ラッセラーなんて掛け声と熱気にあふれた中心から、ほんのちょっと脇道にそれた時。
それまでけたたましく聞こえていた掛け声や太鼓の音も、路地裏に一歩足を踏み入れただけで何処か遠くのほうから聞こえてくるようだ。雑踏から少し外れただけなのに、まるで別世界のような雰囲気の路地裏がそこにあるはずだ。
そんな路地裏を、祭りの雑踏から連れ出して二人きりになりたいがため、誰かが女の子の手をひいて足早に駆け抜けていったかもしれない。
またある日は、酔いつぶれたオヤジが千鳥足でその道をたどり家路についたかもしれない。
もう、この家にはいたくないと言った人も同じ路地裏を抜け外の世界に出ていっただろう。
かと思えば、一匹狼のような野良猫の抜け道にもなっていたりして。
今は手押し車を押しながらゆっくりと歩くお婆ちゃんも、幼少の頃に同じ道をつっかけでパッタパッタと駆けまわっていたかもしれない。
どれだけ妄想を膨らませているのか、という感じかもしれないけれどマニアや萌えってつまりはそういうところだと思う。
ついこの間、とある大きなダムを目のあたりにすることがあった。近頃はダムカードなるものを集める人がいたりと、ダム自体が人気スポットになっている。工場萌えなんていうものもある。
そんな「萌え」とはいったい何か?を少しだけ掘り下げて考察すると、やはりそこにあるのは「その景色の、背景にあるものを勝手に想像すること」ではないだろうか。
ダムの迫力にでかっ!すごい迫力!とか、スポットライトに照らされた夜の工場はまるでイルミネーションのようでキレイだなぁって思う。
そんな直感的な感想とは別のところ、そのダムや工場の背景にあるものに対して抱く妄想も含めてが「萌え」なんじゃないだろうかと思うわけです。
何はともあれ、妄想はとても大切なことだと思う。
妄想は無料(タダ)なのである。しかも、妄想が人の大きな原動力になったりもするのである。それがたまに違う方向に向かってしまうと犯罪と言われるものにつながってはしまうけども。
こと路地裏に関して言えば、誰も通らないような道を見つけ、そこを抜けたからと言って先になにがあるわけでもない。
むしろ何もないことがほとんどである。
ただ、そんな路地裏に一歩踏み入れただけで聞こえてくる、見えてくる当時の様子を妄想するのが好きだ。
それに路地裏は何処にだってある。そう、見慣れた街でもいつもとは違う道を歩いたりするだけで見つけたりする。
大切なモノ、コトと同じように、気づけばそれはとても身近なところにいつだってある。
少し変わったところだと、たまたま通り抜けた裏道。こんな路地裏もまた気になってしまう。
アルバイトサロンとはいったい何か。そして取ってつけたように本館とあるが、はたして別館もあるのだろうか。
見慣れた街や旅の途中で訪れたその土地、土地で。
これからも路地裏を探す(と言っても意図的に探すのではなく、不意に見つけるのが好き)旅はつづく。
歩く速さ、物事の考え方も歳を重ねるごと少しづつ変わっていくはずだから。それまで気づきもしなかった路地裏の存在に気づくかもしれない。