2018/02/15
4連休さいごの朝、目覚めてから横になったまま窓の外に目をやると、秋晴れに近い空模様がカーテンレース越しに伺える。昨日までの曇り空と比べたら、幾分か気持ちの良い天気だ。
布団の上でぬくぬくと過ごしているうち「4連休さいごの日」「あまりバイク乗ってない」「連休明けの明日は、夜勤(だから多少疲れても大丈夫・・・)」と、いろいろなワードが頭の中に浮かんでは消え「よし、久しぶりに少しだけ千葉をぶらりと巡ろう」という答えにたどり着く。
ちなみに地元・千葉を巡るプチツーリングのことを「プチ千葉ツーリング」=「プッ千葉ツーリング」と呼ぶことにしてみた。たった今から。
千葉の有名?スポット、2か所を巡る
久しぶり県内を巡るにあたって、どこへ行こうかと少しだけ悩んだものの。
これまで行ったことのない場所にしようと思いつくのとほぼ同時に「大戸の洗い越し」を最初の目的地に決めた。
自宅から下道を走ること1時間半ほどで到着。
「洗い越し」という道は、何もここ大多喜町にある「大戸の洗い越し」だけのネーミングではなく「道の上を川が流れるようにしてあるもの」の、総称だ。
橋を建設するだけのコストが足りない(もしくは見合わない)、そのほか技術的な理由で「洗い越し」という道が敷かれ、国内のみならず海外の色々な地方にも当たり前のように存在している。
戦時中などは敢えて橋を架けず、洗い越しを造ったりもした歴史があるらしく。
と言うのも、橋を渡せばもちろん自軍にとって便利なこと、この上ないだろう。ただ、それと同じくらい敵軍にとっても極めて便利なものになってしまう故「奪われてしまうリスクがある場所に架ける橋」は、いわば諸刃の剣だったのではないだろうか。
そして上記のような理由から、橋を架けるための労力がコストや時間、維持の目的などと見合わない場合に「洗い越し」という道を敷く選択がされてきたのだと思われる。
と、昔から「洗い越し」を知っているかのような書き方をしているけれど、今日のツーリング帰宅後「ウィキペディアで洗い越し」を調べ読んで初めて知った・・・。勝手な想像も交えて書いている。
ちなみに大戸の洗い越し、歩いて渡るにも水量も多くためらってしまう。かと言ってバイクで渡るにも、万が一にも途中でスリップしようものなら両脇の川底どちらかにバイクを落としてしまいかねない・・・
そんな、起きうる最悪の事態を想像するだけでビビってしまい・・・何枚か写真を追加で撮って、もと来た道を引き返した。
そして大戸の洗い越しのあとは、どこへ行こうかと悩んだ結果「濃溝の滝」を目指すことに。グーグルマップで調べてみると、大戸の洗い越しから濃溝の滝は約40分。けっこう近い。
あれ?思ってたんと、なんか違う・・・
自分の中の「濃溝の滝」のイメージは、アベック・・・いや、カップル(どっちも死語)が2人で訪れたなら「良い景色だね、また来ようね。」なんて言いつつ繋いでいる手をさらにぎゅっと強く握りしめ、愛を再確認し合う。と言うようなシチュエーションにぴったりな、ハート型の風景だった。
ちょうど、濃溝の滝の駐車場横にあった売店に飾られている下の写真のような・・・
このような感じの綺麗なハート型の景色を観ることができるのは3月の春分の日、9月の秋分の日前後の6:30~7:30の模様。
いつか写真と似たような実物を観に行ってみようと思う。6時半に濃溝の滝となると、5時には起床して向かわなければならない。果たして起きられるだろうか笑
2020年9月22日の道のり
走行距離:175km
連休最終日となる秋晴れのこの日、少しだけ気持ちの良いプチツーを。と思って出かけたけれど、帰り道は小雨にも降られ、それなりに疲労感も残る往復となったのだった。
大戸の洗い越しから濃溝の滝に向かうまでに走った、清澄養老ライン(国道何号だろう?)は気持ちの良い道。地元・千葉とはいえ、まだまだ訪れたことのない面白い場所、走ったことのない気持ちのよい道が幾つもある。
何も遠くに行くだけが、旅行じゃぁないんだ(たまには、したいけど・・・)
「足もとをごらんよ、きっと転がってるさ」ってミスチルも昔に歌っていたよ。
大切なことや望んでいることって、意外とすでに目の前にあったりするのは事実だと思う。
「無いものほど望んでしまう」のは、若さの特権というのは確かにあるかもしれない。ただ、幾つになってもそこに執着することほど見苦しい姿はないだろう。「モノ」に対してはもちろん「ヒト」に対して何かを望まない。ねだってはいけない。
職場でも何でも「なんでチミはこんなことも出来ないんだ!」的な不快感をあらわにする人が、未だに、ここあそこにいる。
できないチミに不快感を感じて叱るくらいなら、まず憤る人が実際にやってみせたらいい。それが出来ないなら、その人の面倒を見る世話役をあてがうような管理すら出来ていない組織自体が問題点なのだ。と感じるべきだ、と自分は思う。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
山本五十六の名言として有名な言葉だけれど、これは格言でも何でもなく「人間が大なり小なりの社会を形成して生きていく」なら当たり前のことだと思っている。