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東京湾内の要塞をめぐる「第二海堡上陸ツアー」に行く

time 2019/06/04

東京湾内の要塞をめぐる「第二海堡上陸ツアー」に行く

「遺構」や「史跡」と聞くと、どこか気になってしまうのは、特にバイクに乗るようになってからだと思う。

もちろん山頂や海を見渡せるような、いわゆる絶景と呼ばれる風景美も好きだけれども。バイクでぶらりと巡る際、「遺跡」や「史跡」も気になるようになったのは不思議なことでもある。

それは単純明白な理由で。学生だった頃は社会史は(社会史も)決して得意ではなかったし、興味が沸かなかったためか、年号の暗記すら苦手だったからだ。

これは言い訳かもしれないけれど「まずは暗記をして、良い点数を取らなければならない」という当時の思い込みが、そもそも間違っていたような気もする。

例えば「アウグストゥス」だったり「オクタヴィアヌス」など、ヌスヌス、トゥストゥスといった似たような名前の列挙ばかり、一体誰がどの時代に何をした人物なのか困惑だった世界史だって、もしも山崎マリさんが講壇に立っていたら、とても面白い講義になるのではないだろうか。なんて思っちゃう。

教え方も悪い!と言うのは単なる甘えだけれども、それでも「ある分野のことが大好きな人が、その趣味の延長線上でもいいから、誰かに教えることも楽しむ」ような先生が増えたら、その情熱に引き込まれ興味を抱く者も同じように増えるのではないだろうか。

解禁された、第二海堡上陸ツアーに参加

と、いうワケで史跡として近ごろ話題の「第二海堡ツアー」に行ってきた話になります。

解禁されたツアーというと、何かとても情緒めいたものに聞こえてしまう。人はどうして、こんなにも「禁断」だったり「解禁」という言葉に弱いのだろう。笑

そんな、禁断の解禁ツアー(決してそんな大げさなモノではない・・・)「第二海堡(かいほう)上陸ツアー」の存在を教えてくれたのは、実家の母だった。

いつからか「あなたなら興味あるかと思って。」と、時おり訪れると新聞の切り抜きを渡されるようになったのだ。時には刊行本の広告切り抜き、時にはコラム、そして今回のような史跡に関する記事など。

そんな切り抜きをもらって帰る度、少しばかり興味があればその本を買って読んでもみたし、もちろんコラムだって目を通す。

ただ「こんな場所、あんた好きじゃろ?」というような感じで、史跡に関する切り抜きをもらったのは、記憶の限りでは今回が初めてだったと思う。

コラムなら貰った切り抜きを読めばよいだけだし、新刊もAmazonでワンクリック、もしくは会社帰りに立ち寄った本屋で購入し、自宅でゆっくりと読めば済むこと。

しかしこれが史跡となると、やはりどうしても行って体験してみざるを得ない。

そんなワケで、東京湾に浮かぶ人工島「第二海堡(かいほう)」に行ってきた話です。

土曜の朝9時に、横須賀集合でございます

2019年度から解禁となったこのツアー、いくつかの旅行会社が日帰りツアーを企画している。

今回は「サンケイグループの産経たびぶ」が慣行している同ツアーが目に留まったので、オンラインから申し込んでみた。

出発日は6月1日(土)午前8時半、三笠公園に集合。もちろん千葉からだとそれなりに早起きしなければならない場所と時間ではあったけれども。こういう遠足的な休みは、自然と早起きができるのは今も昔も変わらない。笑

公園内には、戦艦「三笠」が飾られていた。

集合場所には、お馴染みのサンケイマークの旗を持っている方がいたので分かりやすかった。

到着後しばらくして受付を済ませ、30分ほどの待機時間のあいだは公園内外をぶらぶらと散策。

※サンケイの第二海堡ツアーには、この三笠艦内の見学チケット代が含まれています。猿島~第二海堡巡りを終えたあと、ゆっくりと三笠艦内を観て廻ることができます。

乗船手続き後、この「SEA FRIEND1」という船に乗り、まずは猿島へ。

およそ80名くらいは乗船できるのではないだろうか、という位に立派な中型船。

しかも、なにげに航海速度も速い・・・。

三笠公園を出港したら、猿島までは15分ほどだっただろうか。

猿島へ寄港、島内を1時間歩きまわって堪能する

猿島へ到着後、まずは1時間の島内観光だったのだけれども。

ここで、ちょっとしたトラブルが。

サンケイさんが手配するはずの猿島ガイドさんが、どうやら島内にいらっしゃらないようである・・・。

滞在時間は1時間しかないというのに、「しばしお待ちを」ということで、10分ほど待機。

次第に「どうなってるんだ!」と詰め寄るツアー参加者の方も現れる。

自分たちはお金を払って猿島~第二海堡ツアーに参加させてもらっている訳で、当然、憤る気持ちも分かります。けれども、怒鳴っても事態は何も変わらないワケで。

確かにガイドさんが居ないと知り得ないようなこともあったかもしれない。

ただ、島内の史跡や景観だったりは、何を知らなくとも、少なくとも何かを感じとることはできるハズ。ということで、早々に待機を諦め、単独で島内めぐりをさせてもらった。

猿島の次は、いよいよ第二海堡へ移動

約1時間ほどの猿島巡りのあとは、再び乗船して第二海堡へ。約20分ほど、船での移動。

近づくにつれ、島の護岸もはっきりと見えてくる。

のちほど挙げる幾つかの写真にも写っているけれど、岸壁の石積も崩落していたりと、かなり損傷が著しい。

長らく一般人立ち入り禁止としていた理由も、この状態を見て納得してしまうほど。「魅力ある公的施設・インフラの大胆な公開・開放」という国の方針に基づき、2019年から旅行会社などによるツアーが催行されるようになったけれども、怪我などの事故が起きないよう願うばかりである。

第二海堡に上陸後、ガイドさんからツアー参加者全員に、貸出用の小型無線機が配布される。

チャンネルを合わせると、ガイドさんの声がクリアに聞こえる。基本はガイドさんについて廻るのだけれど、これさえあれば常に傍らに居ないといて耳を澄まして聞く必要もない。これはなるほど便利である。

ちなみに今回のツアーでは、1隻の船に約60人ほどの参加者が乗り込み、第二海堡に到着後、3名のガイドのもと、20名ずつ3グループに分かれて行動する形だった。

上陸後、各々グループごとに別の場所へと移動しつつ廻る形なので、混雑するようなことも無い。

第二海堡を代表する光景は、やはり高台に建っているこの砲台跡ではないだろうか。

丁寧に積まれたレンガを覆うように、びっしりとコンクリートが塗られている。この工法によって強度が保たれているためか、今もほぼ原形をとどめて鎮座していた。

余談ではあるけれども、今は風化して消えてしまってはいるが、昔はこの砲台壁面に写真のような飛行機が描かれていたそう。

飛来する爆撃機の姿かたちから、それが自国または敵国のものなのかを判別するために描かれた。とのこと。

こんな当時の写真が残っているのも、接収した当時の米軍が、その絵画の精巧さに感嘆したらしいからである。

今も東京湾に光を放ち続ける灯台と「FORT NO.2」の文字も、有名な光景だろうか。

この「FORT NO.2」という文字、いつ誰が書いたのか不明だそう。

もしもこれが、少しばかり昔の一般人(例えば自前のヨットや釣り船を保有していた人)によるものだったとしたら、何だかセンスいいなって思ってしまう。いたずら書きと言えばそれまでだけれど・・・。

海堡の至るところで崩落の跡があり、ところどころロープなどが張り巡らされていた。

第二海堡の歴史的背景」について、考察してみた

第二海堡」は、いつ作られたのか?どんなトコロなのか?などは、ツアーに参加することで理解できるものである。

ただ、ツアー中もずっと自身の中で疑問というか、曖昧だったことがひとつ。

首都を守る防衛線として、実際に活かされた歴史が本当にあったのだろうか?

この点についてガイドさんに尋ねると「第二海堡から実際に砲弾が発射されたのは2回、という記録が残っている」とのこと。

なんとなく、そんなに活かされた経緯は無いのかもしれない・・・。漠然と思ってはいたけれど、どうやらこの憶測もまた事実のようである。

それでも「海上要塞」というワードだけで、ワクワクしてしまうのは男の性であろうか。

ここで一度、東京湾に作られた人工島「第二海堡」について振り返ろう。

  • 1889年竣工、1914年6月に完成
  • 1923年の関東大震災により大破
  • 第二次世界大戦で再び、対空砲などが設置される

ペリー艦隊が東京湾にその姿をあらわしたのは、江戸時代末期の1853年のこと。

海堡の着工はその36年も後になってからのことなので、決して「ペリー対策」ではなかっただろう。そして着工後もっとも近い戦争は1894年の日清戦争、その後は1904年からの日ロ戦争である。

一体なぜ、東京湾に海堡(要塞)を作ろうと考えたのだろうか?

その答えは、こんなトコロにあるはず。(と、勝手に思っている。)

ペリー来航時の頃のことなのか定かではないが、当時、大砲の飛距離は最大で1kmだったとか。東京湾を東西に挟む形の横須賀、そして富津に砲台を設置したとしても、どうしても届かないスポットが生じてしまう。

ちょうど上の画像、左右青矢印をおおよそ1kmとして引いてみると、その間がポッカリとデッドスポットになってしまうのだ。

この弱点を埋めるべく、海上要塞建設に着工した。というのは、ツアーガイドさんから教えていただいた話。

ただ、15年の歳月をかけて作っている間に技術力も高まり、当然のごとく大砲の飛距離も延びて、あまり必要としなくなっちゃったんだろう。なんて思っている。

これは海堡ツアーの後の「戦艦・三笠」見学の資料で知ったことだけれども、三笠の主砲はなんと15kmほど先まで砲弾を飛ばすことができたそう。

そこまで飛ばすことができる大砲を作れるなら、海上要塞だって必要ないよね・・・ってなっちゃいます。

関東大震災で大破、一度は見限られる海上要塞

1914年に完成した海堡、そのわずか9年後の1923年に発生した関東大震災では、土台である土砂は流出(今で言う液状化現象でしょうか)、砲台も傾いてしまったりと大きな被害が出てしまったそう。

これはもう、使いモノにならんね・・・

ということで、この被害を機に軍は海上要塞の放棄を決めたそうです。

想像の域でしかないけれど、着工から完成まで15年、その間に海上要塞など必要としないくらいに軍事力などの技術は高まっていたわけである。

それでも莫大な人とお金を投入し続けて作っていた海堡、やっぱり不要になりました。なんて、きっと簡単に言えるはずもなく・・・

震災で崩れたことを機に、要塞としての利用を諦めることになったのだと思われる。※防衛として本当に必要であれば、この後すぐに修繕していたはずだもの。

第二次世界大戦で、再び歴史の表舞台に

その後、1941年に第二次世界大戦の開戦となると「首都を守るための高射砲台」として再び使われることになったそう。ただ、この時も防衛線としての役割を果たすことは出来なかったのではないだろうか。

東京大空襲(1994~1995年)という事実が、それを物語っている。

もっとも、空襲の頃は既に弾薬などの資源も枯渇状態だったわけで、海堡自体が役立たずというわけではなかったのではないだろうか。東京を守る最後の防衛線という意味では、じゅうぶん重要なところに位置しているように思えるから。

こうして今に至る、第二海堡。

ガイドさんが言っていた「時代に翻弄された海上要塞」という言葉も、このあたりの時代背景を想像すると納得です。

それでも、今のうちに見ておきたい「第二海堡」

2018年に一部ツアー解禁となり、少しばかり脚光を浴びているこの海堡上陸ツアー。

前述にも書いたけれど、実際に上陸して廻って見た限りでは、至るところが崩落していたりと損傷も激しいことから、果たしていつまでもツアーを催行し続けられるものなのだろうか?という疑念も抱いている。

もしも自身が都内の観光責任者みたいな立場の人間だったとしたら、このままもう少し崩壊が進んだところで中止にするだろうな。何か事故が起きてからでは遅いもの・・・。と思うだろうなぁ、という感じ。

そんなことは無いのかもしれないけれど、今のうちに見ることができて良かったと思っている。いま自分は東京湾に浮かぶ人工島に立っている、歩いてる!という、子供のようなわくわく感。まだ、そんな気持ちになる時があるなんて思ってもいなかった笑

開催日程は各旅行会社によって異なるようだけれど、以下の旅行会社が同ツアーを催行していたようです。※今現在も受付~催行中の会社もあります


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けんけん

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鉄馬も好きだけど、本当の馬も好き。一口馬主やっていらっしゃるライダーさんいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。「FTR223と行く」ブログを書き始めたら、なおさらバイクへの愛着が増してしまったので、そんな愛情をココにどんどん残していきます。どうぞ宜しくお願いします。